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日本基督教団高槻日吉台教会は、プロテスタントのキリスト教会です。

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礼拝説教

「えらい人」

おすすめイメージ日時:2022年4月3日
受難節第5主日
復活前第2主日

聖書箇所:マルコ10章32-45節(P.82)
讃美歌21:300/ 535
説教者:𠮷岡恵生 牧師
(高槻日吉台教会・朝礼拝)







  かつて私が神学生をしていた頃、その教会の牧師と一緒に、教会員を訪問する機会がありました。その教会員の方は足に怪我をされて自宅療養中でありましたので、牧師と一緒にお見舞いに行こうということになったのです。
 訪問をしますと、その方が迎えてくださいました。足はギブスで固定され、松葉杖をついています。「大変そうですね」。私がそう言うと、その方は「ああ、えらい、えらい」と言うのです。私は「そんなことないですよ」と答えました。するともう一度、「いや、えらいねんて」と言われたのです。私は、なぜ「大変そうですね」と気遣っただけのに、私のことを「えらい、えらい」と褒めてくれるのかと思って、もう一度、「いや、そんなことありませんよ」と答えました。すると、牧師が笑いながら言うのです。「吉岡くん。関西では『大変だ』ということを『えらい』と言うんだよ。もちろん、『あんたえらいなぁ』と言う時には、『あんたすごいなあ』という褒め言葉として使う時もあるけどね、『えらいこっちゃ』と言ったりして、『大変だ』という意味で「えらい」と言うこともよくあるんだ」。
 私は赤面しながら、「えっそうだったんですね。それはすみません」と言いました。イントネーションは多少違うと思いますが、文字で書けば同じ「えらい」という言葉です。しかし、地域が変わればその意味も真逆にさえなってしまう。別の言い方をすれば、視点が変われば意味が変わる。言葉の難しさや奥深さを感じた出来事でありました。
 今日の聖書には、人の上に立つ、偉い人になりたいと願った弟子たちの姿が出てきました。しかし、こうした願いを持つ弟子たちのことを、視点を変えて神の立場から見るならば、それは関西弁で言うところの「えらい人」、つまり、大変な人、困った人だなと受け止められ ていたかもしれません。
 今、この世界にも、大変困った偉い人、権力者がいることを思います。人の上に立ち、権力を振るい、自分は安全なところにいて、若者たちに戦争をさせる。そんなえらい人がいるのです。困ったものです。権力を持つ者が、自分の欲望を満たすために人を動かし、使い捨てる。そんな人の下で働くことは、本当に大変なことです。世の中の構造からして、誰かが、いわゆる上と言われる立場に立ち、組織をまとめたり、何かを調整したりする。そういう働きは誰かが担わなければならないと思います。しかし、その立場に立つ人が、結局、託された権力を自分の欲望を叶えるためにばかり使っていたら、その偉い人は、その社会や世界全体からすれば、あるいは、この世界全体を造られた神からすれば、本当に困った存在となるのです。
 偉いかどうかは別として、私たちにもそれぞれに、託された力というものがあると思います。それはもちろん、権力者たちのような大きなものを動かす力ではないかもしれません。しかし、どんなに小さなものであっても、私たちにはそれぞれに、神様から与えられた力があるのです。聖書はそれを、賜物と言ったりもしますけれども、その賜物を私たちは何のために使うのか。そんなことを問われる話が、今日お読みした聖書の中に記されています。その賜物の用い方一つで、私たちは、神の目から見て、「偉いぞ、よくやってるな」と、喜んでいただくこともできるでしょうし、一方で、「えらいこっちゃ、困ったものだ」と神を落胆させることもあるのだと思います。
 さて、聖書に目を向けて行きましょう。イエス一行は、エルサレムへと上って行きました。イエスはその先頭に立って進んで行かれます。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れたとあります。この時イエスは既に、二度ご自分の受難と死の予告をしていました。ユダヤ人の偉い人たちに捕まり、殺される。このことを、イエスは弟子たちに話していたのです。弟子たちは、そのことの意味を正しく理解することができていませんでしたが、心のどこかには、ユダヤ人の偉い人たちがいるエルサレムに向かうということについて、胸騒ぎがするような感覚を覚えていたのかもしれません。何よりも、先頭に立って進むイエスの表情に、只事ではない何かを、弟子たちは感じたのかもしれません。イエスに従って行くということは、決して優しいことではない。その厳しさが、この弟子たちの恐れに表れているのだと言うこともできるでしょう。
 イエスはここで、三度目となる、ご自分の受難と死、そして復活について、弟子たちに話しました。新共同訳聖書では省略されてしまっているのですが、実は原典においては、このイエスの身に起こる一連の出来事が、7つの「そして」と言う言葉によって結ばれています。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。そして、彼らは死刑を宣告し、そして、異邦人に引き渡す。そして異邦人は人の子を侮辱し、そして唾をかけ、そして鞭打ち、そして殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」。最後の「そして」だけ、省略されずに訳されていますが、この福音書を書いたマルコは、この7つの「そして」という接続詞を通して、実に象徴的に、イエスの身に起こることの連続性や必然性を描いているのです。つまり、復活という栄光に満ちた出来事に到達するために、イエスが受難を受けて死に至るという出来事は、必ず通らなければならない出来事であったというこということです。最後の「そして」という言葉も、通常考えれば、「しかし」という否定の言葉で結んでも違和感はないと思います。「殺す。しかし復活する」。ところがマルコは、あえて「しかし」ではなく、「殺す。そして復活する」と書くのです。イエスの身に起こる一連の出来事が、7つの「そして」で結ばれている。7と言えば、完全数と呼ばれる数字です。神の救いの実現は、受難と死を経ずには完成しない。「不幸にもイエスは苦しみ死んでしまった、しかし神はイエスを復活させた」というのではなく、イエスはこの受難と死を必然のうちに通り、そしていよいよ復活という神の栄光を受けた。神の計画を実現させるためには、優しい道ばかりでなく、避けたくなるような苦難の道をも歩まなければならない。そして、その道の先にこそ、永遠の命がある。マルコは、その信仰を7つの「そして」という接続詞に込めたのだと思います。
 しかし、これほど厳しい、衝撃的なことを聞いたのに、イエスの弟子たちはなお無理解のままでした。ヤコブとヨハネは進み出てイエスに懇願します。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスはこれから、エルサレムで偉い人たちに捕らえられ、そして殺されると言っているのに、弟子たちは、イエスがエルサレムに行けば、ユダヤ人の偉い人たちどころか、その地を支配するローマ帝国の偉い人たちをも打ち倒して、ついにその地の王に君臨されると密かに期待をしていたのです。あの偉い人たちのポストに私たちの先生であるイエスが着く。そうなったならば、私たちを右大臣、左大臣として置いてください。自分達も偉い人になり、もっと大きな力を持ってみたい。そんな欲望が、この弟子たちの態度に溢れています。
41節を見ると、この弟子たちの願いについて、ほかの10人の弟子たちが腹を立て始めたと書かれています。つまり、他の10人もまた、ヤコブとヨハネと同じような願いを持っていたということです。ヤコブとヨハネだけ抜け駆けをするように、先んじて権力のあるポストを要求したことに、他の弟子たちは腹を立てた。結局皆、権力の座が欲しかったのです。人の上に立ち、人を思いのままに動かして行くような力に、弟子たちは皆心を奪われていた。そのような状況が、ここに伝えられています。
イエスは、そんな弟子たちに対して42節以下でこう言います。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりた者は、すべての人の僕になりなさい。」
ここで重要なポイントは、「あなたがたの間では、そうではない」とイエスが言われていることであると思います。イエスに従う者というのは、この世の構造とは異なる道を行くのだと、イエスがはっきりと語られているということです。イエスの言葉や行いを見れば、そもそも、この世の常識を打ち破り、むしろその逆を生きて行くことに、深い意味を見出していったことが分かります。だからこそ、イエスは世の権力者と対立をしましたし、偉い人たちから忌み嫌われて、受難を受けることになったのです。しかし、その受難が必要不可欠だったのは、その社会の構造に、たとえ激しい逆風が押し寄せてきたとしても、そこに立ち向かっていくべき真理があったからです。
権力者が人を支配し、偉い人たちが権力を振るう。この世界の現実で起きていることはでしょうか。それは昔も今も、権力を持たぬ者たちが虐げられ、その命の尊さを踏み躙られてきたという現実です。踏み躙られる命も、神が愛して、大切に守られ、生かされている命です。それなのに、自分の欲望ばかり追い求める権力者たちは、その神が愛する命を軽んじて行く。世の多くの権力者たちの生き方は、その意味で、すべての命の与え主である神に敵対する存在となっていたのです。
イエスは、決してこの世の構造の中で、人の上に立つ権力者になることをダメだと言っているわけではありません。実際、弟子たちが権力の座につきたいと願った時、イエスはその願望自体を否定したり、たしなめたりはしていないのです。もし、権力の座に着くとしても、あなたがたの間では、人々を支配する権力者のようであってはならない。イエスはそう言ったのです。確かに、もし、この世の権力を持つ者が、欲望のままに人の命を軽んじて行動するのではなく、イエスが言うように、皆に仕え、すべての人の僕になるように、すべての命を支える者として行動をしたら、この世界は、私たちが今見ている世界とは異なる状態になるのだろうと思います。権力の座が悪いのではなく、権力を持つ者がどう生きるか。つまり、与えられた力を、一人一人が、何のために使って生きるか。どのような立場であれ、その心のありようが、何よりも大切になるのだと、イエスは言いたかったのだと思います。
先日私は、かつて国連の難民高等弁務官として10年に渡り、難民のために力を注いできた、キリスト者でもある緒方貞子さんについて書かれた本を読みました。緒方さんは、2019年に92年の地上の生涯を終えられて帰天されましたが、改めて、その働きの根底には、絶えずキリスト者としての信仰があったのだということに気付かされます。緒方さんはあるインタビューで、自身の働きについてこう語っています。「人の命を助けること、これに尽きます」。相手がどこの誰であるとか、どんな立場の人だとか、そんなことは関係ない、とにかく、人の命を助けることが自分のなすべきことだと、緒方さんは語っていたのです。そしてまた別の機会ではこうも言っています。「命を助けることが最優先です。国境に何の意味があるというのでしょうか」。この世界には、人が定めた国境というものがあり、その国境を越えなければ救えない命がいくつもある。そのもどかしさを感じてきた緒方さんの言葉です。国境があること、それはこの世の常識かもしれません。しかし、その人間が作った国境の奪い合いによって争いが起こり、その国境の内側にいるか外側にいるかによって、守るべき命や奪っても良い命があったりする。皆、同じ大切な命なのに、各国境の中にいる支配者たちによって、世界の人々の命に格差が生じている。緒方さんはまさに、キリスト者として、この世の常識を覆して行くような思いを持ちながら、隔てなく、命を救い、尊ぶという理想を追い求めて、自身に与えられた力を用いていった方だったのだと思わされます。
イエスは、神の目に本当に偉い人になりたいのであれば「皆に仕え、すべての人の僕になりなさい」と言ったのです。緒方さんにとっては、この御言葉を追い求めることを妨げるものとして、国境という壁を感じたのかもしれません。「皆に仕え、すべての人の僕となる」「皆」に、そして「すべて」のという言葉に、一切の隔てはありません。自分にとって大切な人とか、自分の仲間、自分と同じ立場にいる人、そういう限定はないのです。
今、この世の中が常識としている国家という枠組みや、人の上に立つ権力者たちがやっていることの多くは、非常に限定的な命を守って行くという構造を生み出していると言わざるを得ません。この世界が、神によって造られ、私の命も他の命も、肌の色が違っても、言葉が違っても、立場や考えが違っても、皆神によって愛された、生み出された命が、この世界に生かされている。この理解が、あるいは信仰が、この世界には決定的に足りないのです。だからイエスは言います。「あなたがたの間では、そうではない」と。命は限定的に尊ぶのではなく、すべての命を尊ばなければならないのだ。そのために、まずあなたがた自身が、すべての命を尊ぶ者として、皆に仕え、すべての人の僕となりなさい。その道を生きることは、世の逆風に合うことでもあり、あなたの欲望と戦うということにもなるだろう。その道には受難があり、我欲を断つという、ある種の自分の死があるだろう。それでも、その道を歩むこと、その先でこそ、あなたは神の前に本当に偉い人として立つことができる。神に与えられた賜物を、神の御心のために、神の世界のために注いでいく一人となることができる。あなたには、それができるかとイエスは問われたのです。
とても、難しい問いです。しかし、イエス自身がその道を歩まれたのです。罵られても戦わず、決して人を傷つけず、十字架を背負い、死への道を歩まれた。苦しみの中でも、全ての人の僕となり続けた果てに、イエスは死んだのです。しかし、その生き様こそが、神が示す尊い命のあり方だったのだということが、死からの復活によって示されたのです。先立つイエスがおられます。そのイエスに、私についてきなさいと、今日私たちも招かれています。与えられた命の時間と賜物とを、あなたは何のために使いますか。迷わず、私について来なさい。このイエスの招きに応えて、私たちも皆に仕え、すべての人の僕となる道を、ここから歩み行く者になりたいと思います。






(2022年4月3日 高槻日吉台教会朝礼拝)













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