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日本基督教団高槻日吉台教会は、プロテスタントのキリスト教会です。

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〒569-1022 大阪府高槻市日吉台二番町3-16

礼拝説教

「民よ、奮い立て」

日時    2021年11月28日 おすすめイメージ
降臨前第4主日
聖書箇所 イザヤ 51章 4ー11節
       (旧約p.1146)
讃美歌21 229/ 230

説教者  𠮷岡恵生 牧師
     (高槻日吉台教会・朝礼拝)
    








 今年もアドヴェントクランツのロウソクに、一つ目の光が灯りました。今日からクリスマスまでの4回の日曜日に、このロウソクの光が一つずつ増し加えられ、備えられた4本のロウソクすべてに光が灯ると、クリスマスがやってきます。
 クリスマスとは、今からおよそ2000年前に、世の救い主として地上に来られた、イエス・キリストの誕生を祝う時です。この世界の暗闇に、神が光を与えられた。そしてこの光を通して、神は、人々の嘆きや苦しみに、慰めと希望を与え、人々が持つ逃れようのない罪に、捕われからの解放とゆるしを与えられる。この喜びの知らせが、イエス・キリストが世に来られたクリスマスの日に、この世界に到来をしたのです。
 今日私たちが迎えたアドヴェントは、そのクリスマスの出来事を想い起こし、その喜びの知らせを受け取るために、心を整える期間です。忘れてはならないことは、クリスマスはこれからやってくるのではなくて、既にもう来ているということです。アドヴェントは日本語では待降節と呼ばれますが、この言葉が表しているように、この期間の大切な過ごし方は、待つという姿勢です。しかし、既に来ているものを待つというのは、少し不思議な表現ではないでしょうか。
 この不思議な待ち方を理解する鍵が、実は、アドヴェントという言葉に隠されています。アドヴェントとは、ラテン語のアドヴェントゥスという言葉に由来しています。この言葉には、待つ、待ち望む、待望するという意味の他に、探す、見つける、冒険するという意味があるのです。英語のアドベンチャーという言葉がありますが、冒険を意味するこの言葉が、まさにアドヴェントの語源でもあるアドヴェントゥスから来ています。つまりアドヴェントとは、ただこれから来るものを待つというのではなく、既に来ているものを探し、見つけるための冒険に出かけ、そこで、既に与えられていた大きな喜びとの出会いの時を、待ち望んでいくということであるのです。
 じっと、同じところに立って待っているだけでは見つけられないものがあります。自分が立っているところから、一歩二歩、三歩と進んで、それまでとは違う視点で物事を見ていく時、初めて見えて来るもの、発見できるものがあります。冒険をするのです。私たちの日常の中を、これまで過ごしてきた当たり前の日々を、新たな視点から見つめていくのです。そこで初めて、気付かされる、既に与えられていた神の光が見えて来る。既にお生まれになっているイエス・キリストが、既に起きているクリスマスの出来事が、私たちと無関係なのではなく、もう既に、私たちの生活の中に与えられていた。そのことに気づくために、心を整えていく、それが、今日から始まるアドヴェントにおける大切な過ごし方であるのです。
 このアドヴェントの時、私たちにはイザヤ書の御言葉が与えられました。イザヤ書は、今や一つの書物としてまとめられていますが、元々は三つの時代にわたって、異なる預言者によって書かれた書物であると言われています。今日与えられたイザヤ書の51章は、第二イザヤと呼ばれる預言者の時代に書かれた御言葉です。第二イザヤは紀元前546年から538年頃に活動した預言者だと言われます。イスラエルの民が、バビロニア帝国によって捕囚の民とされた、いわゆるバビロン捕囚の末期、その時、神がイスラエルの民に告げた言葉を、この第二イザヤは取り次いだのです。
 かつて、アブラハムを通して神と契約し、約束の地と子孫の繁栄を約束されたイスラエルの民でしが、彼らの歴史は困難に満ちたものでした。モーセの時代には、エジプトで奴隷となり、そこから逃れても、荒れ野で40年もさまようことになりました。その後も強大な国々に苦しめられ、バビロン捕囚を経験するに至ったのです。大切な神殿は破壊され、住み慣れた街を追われ、屈辱と、苦難を味わいながら、自分達は、神に見捨てられたのだと嘆く民も現れました。そんな悲壮感に満ちた只中を、この第二イザヤも共に歩んだのです。
 自らも苦難を味わいながら、しかしこの預言者は、希望を捨てることはありませんでした。神の約束に固く立ち、神から託された慰めの言葉を語り、この苦難は、決して苦難では終わらないこと、この苦難の先に、永遠に枯れることのない救いの約束があるのだということを力強く語りました。今日私たちに与えられた御言葉は、その一部を告げています。
 「わたしの民よ、心してわたしに聞け」。第二イザヤは、そう民たちに呼びかけます。あなたたちには、聞くべき言葉がある。語りかけられているのに、聞けていない言葉がある。存在しているのに、見えていないことがある。だから、心して聞けと言うのです。
 7節のところに「人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな」という御言葉があります。まだ見ぬもの、見えにくいものを探し続け、人々の目には隠されていることを追い求め続けるということは、時に虚しく、周囲の人々から嘲られたり、ののしられたりすることであるのだと、この預言者は知っているのです。だからこそ、その声を聞いても惑わされるな。恐れるな、おののくなと預言者は語ります。
 この言葉を聞いて、私はある映画を思い出しました。いわゆるアドベンチャー映画と呼ばれるジャンルの映画です。インディージョーンズであるとか、ナショナルトレジャーという映画があるのです。私が最も好きな映画のジャンルの一つです。主人公が、昔から言い伝えられている宝の存在を聞きつけます。しかしその宝は、何百年も、年前年も、まだ人の目には触れずに隠され続けているのです。人々の中には次第に、あれは単なる噂であって、宝などと実際には存在しないのだという声が大きくなっていきます。しかし主人公は、その宝は必ずある。どこかに必ずあると信じて、宝探しの冒険に出かけるのです。途中で、あらゆる困難に遭遇し、命の危険にもさらされます。人々からは嘲られ、そんな宝などあるはずもないのにと吐き捨てられます。それでも、主人公は宝を探し続け、ついにその宝を手にするのです。宝探しの冒険は、多くの人の目からすれば滑稽に映るものなのです。隠されたものだからこそ、人の目には触れられずに来ているだけなのに、多くの人々は、自分が今見ている世界がすべてだと思ってしまう。冒険など無意味なことではないか。夢物語ではないか。そのように考えて、宝を探すということの価値に思いを及ばせない人が多すぎる。しかし、信じ抜き、探し続ける者には開かれる扉がる。それは、新たに出現する扉ではなく、既に何百年も、何千年も前からあったもの。人知れず存在し、隠され続けて来たもの。そうした宝に至る扉が、この世界のどこかにあるのだというロマンを、多くのアドベンチャー映画が描いているのです。
 アドヴェント、それはアドベンチャーなのだ。冒険なのだと、今日冒頭で語りました。神は人に、慰めと希望が与えられる。神は人を見捨てない。たとえ、神に見捨てられるような罪を犯していても、神はその罪をゆるしてくださる。いにしえから語り伝えられて来たその教えを信じ抜くこと。その教えが単なる噂や幻想ではなく、現実に存在しているのだと信じ、探し続けること。この世界のどこかに、その神の約束の実現を物語る宝が隠されているのだと、宝探しの旅に出かけていくこと。それが、アドヴェントの大切な過ごし方なのです。たとえ、人々から嘲られても、ののしられても、この宝を探すことを決してやめない。それが、このアドヴェントの時に私たちが思い出すべき、大切な生き方なのです。
 預言者は「奮い立て、奮い立て」と民に呼びかけます。そして、疑いと、迷いの中にある民たちに、神がその御腕をもって、力強くご自身の存在と、その御業を表してくださることを祈っています。そして預言者は、この神の御業に目を開くためには、過ぎ去った、過去の出来事に目を注ぐことが大切なのだと告げるのです。「奮い立て、代々とこしえに、遠い昔の日々のように。ラハブを切り裂き、竜を貫いたのはあなたではなかったか。海を、大いなる淵の水を、干上がらせ、深い海の底に道を開いて、贖われた人々を通らせたのはあなたではなかったか」。預言者はそう語ります。ここにある、ラハブや竜というのは、古代から知られる海の怪物です。また海を干上がらせて人々を通らせたというのは、あの出エジプトの出来事を指しています。イスラエルの民が知る、かつての神の御業、人々が恐れるものを打ち倒し、道なき道にも道を作られる神。それは幻想でも夢物語でもなく、あなたたちの先達がその目で見て来た現実だったではないか。神は、今日も、同じように働かれ、あなたたちのために、救いの道を開かれる。あなたたちは、その救いの扉を見ることができず、たじろいでいるが、過去の出来事を想い起こして奮い立て、そしてあなたが生きる今、この時代にも、神が備えられた救いの扉を探し、その扉を通って、神が与えてくださる宝に出会っていく冒険へと出かけていこうと、語りかけているのです。
 過去の出来事の中に、確かな神の存在とその御業とを発見していく。預言者が勧めるこの道は、神の宝を探す冒険において、極めて重要な歩み方であると思います。先週は、この教会の創立記念日でありましたが、何度か、この礼拝でも分かち合っていますように、私たちは今年、将来構想委員会を立ち上げて、その委員を中心に、教会の歴史から学ぶということを始めているのです。私も改めて、教会がこれまで発行しています、30年誌や50年誌を読み返しながら、この教会が、奇跡としか言えないような、数々の神のご計画と御業の中で、育まれてきたのだということを学んでいます。まだこの教会が、会堂を持っていなかった時、既に始まっていた家庭集会の中で、願わくば会堂を与えてくださいという祈りが重ねられた。すると、驚くべきことに、その祈りからたったの一年ほどで、海外からの献金や教団からの支援が与えられ、教会の人々の献金と共に、あっという間に会堂建築に必要な費用が満たされた。建築に必要な土地や建築家でさえも、すべてが整えられて、あっという間にこの会堂がこの場所に建てられた。もちろん、多くの人々の努力が、その過程にあったことも思いますが、何よりその背後には、この教会の歴史に働く、奇跡を起こされる神の御業があったことを思わずにはいられないのです。そして、その過去の出来事に目を注ぐ時、私は、過去の思い出に浸るのでも、過去を羨ましがるのでもなく、今もその神が、変わることなく、私たちと共に歩んでくださっているのだと、信仰を奮い起こされる思いを与えられるのです。
 今、私たちが生きる時代が、どんなに困難だと感じても、私の信仰は奮い立ちます。目の前に、神の働きが見えなくても、神よ、あなたはどこにおられるのですかと思うことがあっても、私は神から与えられている宝を探すことを決してやめません。見えないならば、歩き出せばいいのです。ずっと立ち止まって、見えない、見えない。神が見えないと言うのではなく、見えないならば動き出さねばならないのです。冒険を始めるのです。教会の新たな時代に向かって、人やお金が集まって、安心して動き出すというのではなく、何もないと思えるところから、それでも、神の宝を探しに行こうと、皆で、歩き出すのです。教会の歴史に与えられた、過去の御業に信仰を奮い立たせられながら、まだ歩いたことのない道を歩き出し、その先にある、既に与えられていた、しかし見えていなかった希望の扉に出会っていくのです。
 もちろん、教会の将来のことだけではありません。このことはすべて、私たち一人ひとりの人生にも言えることです。私たちの人生には、さまざまな課題があります。信仰を揺さぶられるような困難にも遭遇します。しかし、そんな弱さを持つ私たちが立ち直る鍵は、やはり過去を振り返ることにあると思うのです。既に、あらゆる困難を通って来ていながら、なお生かされている自分がいる。なお、今日を迎えられている自分がいる。それはなぜなのかと問うのです。そしてそこに、不思議な出来事を見つけることがある。誰かに助けらた、支えられた、傷ついて、慰められて、落胆して、励まされて、そうして不思議となんとか今日を迎えている。そういう人もいるでしょう。その不思議さの背後に、神の働きがあったとしか思えない、小さな、あるいは大きな奇跡を、私たちはそれぞれに体験してきているはずです。見えていなこと、気づいていないこともあるでしょう。しかし改めて振り返れば、見えてくること、気づけることがあるはずです。そこで神の御業を発見し、同じ神の働きが、今日にもなお与えられていることに目を開かれていく。探そう、見つけよう、今日の私の日常の中にも、この神の働きを。そんな思いが湧いてくる。そこから、新たな冒険が始まるのです。
 イエス・キリストが生まれたというクリスマス。この出来事は、神が私たちを必ず救ってくださると約束された、確かなしるしです。その出来事は、もう2000年前に起きていること。やはりこれも、過去の出来事なのです。しかし、その過去の出来事を、教会は代々に渡って、覚え続けてきました。私たちも、毎年、アドヴェントを過ごし、クリスマスを祝っています。それはなぜか、過去の出来事を想い起こしながら、今日も、その神の御業が私に与えられているのだと言うことを信じるためです。そして、その御業を見るために、信仰を奮い立たせて、冒険に出かけるためです。そのために、私たちは毎年繰り返し、このアドヴェントの時を迎えるのです。
 さあ、今年も神からの宝を探す一歩が、ここから始まります。教会の暦においては、今日から、新たな一年が始まるのです。私たちの歩む信仰の旅路は、冒険です。神から既に与えられている良きものを探していく冒険です。信仰を奮い立たせて、共に新たな信仰の一歩を、ここから踏み出していきましょう。







(2021年11月28日 高槻日吉台教会朝礼拝)




「信仰のないわたしを」

日時    2021年11月21日 おすすめイメージ
降臨前第5主日
聖書箇所 マルコ 9章 14ー29節
       (新約p.78)
合唱   21 - 389
讃美歌21 430/ 529

説教者  横野朝彦 牧師
     (高槻日吉台教会・朝礼拝)
    








 世の中には、本当に立派な信仰者がおられます。語る言葉、なさる行い、どれを取っても素晴らしいなあと思わされます。マザー・テレサや、コルベ神父、有名な人、無名の人、素晴らしい信仰者がおられます。キリスト教関係の図書目録を見ると、古今東西のキリスト者たちの伝記がたくさん出版されています。また小説として描かれています。伝記を読むと、人間的過ちをも合わせて紹介されていますけれど、それでも、わたしなどに比べれば、その弱さや欠けも小さなものです。あんなに素晴らしい信仰を持つことができればどんなに良いだろうと、ただただ感心させられるばかりです。
 でもどうでしょうか。そんな立派な信仰者が世の中におられるのは認めますが、かといって、教会に集う人たち全員がマザー・テレサのような人たちばかりではありませんし、聖人のような人たちばかりではありません。いやそれどころか、それらからあまりにもかけはなれた弱さや罪深さを持っているのがわたしたちの現実だと思います。人間なんて弱い者です。約束をしてもすぐに破ってしまったり、何かの決意をしても3日坊主に終わったり、誰かを大好きになってもその心が冷えていったり、かって気ままな弱い者なのです。わたしは強い信仰を持っています。わたしは立派な信仰を持っていますなんて、だれにも言えません。
 ところが、弱さや罪深さを持っていながら、そのことを口にすることは恥ずかしいことで、教会では、なんというか、信仰深いように体裁をつくろわなければならない、良い子でいなければならないと思われていないでしょうか。教会の祈祷会などで聖書の学びをしていると、難しい箇所を理解できないのが、とても恥ずかしいことであるように語られる場合があります。自分は勉強していないからと、申し訳なさそうに言われることがあります。でも、聖書は現に難しいのです。その歴史的社会的背景を知らなければ、わからないことが多いし、なんといっても2000年前の文書ですから、その表現方法は今日のわたしたちの方法とは随分違うのです。難しいと思うのが当たり前で、自分は分かっていると思うとすれば、そちらのほうがよっぽど問題です。
 わたしは洗礼を受けてから今年で58年、牧師としての働きをし引退して4年目。信仰について尋ねられれば、当然キリスト教の信仰を持っていますと答えます。けれどもわたしは、いっぽうにおいて、自分の信仰の弱さを認めざるをえません。何かを判断するときに、神さまの御心を聞くよりは、自分の願いを優先させ、またこの世の価値観に引きづられ、世の誘惑に引かれることしばしばです。「フランシスコの祈り」という祈りの言葉が有名で、皆さんもご存知だと思います。讃美歌499にもありまして、そこでは「慰め求めず慰めることを、理解されるより理解することを」と歌われています。けれど、これとはまるで逆に、慰めるよりは慰められることを、理解するよりも理解されることを求めているのが、いつもの自分です。愛するよりも愛されることを求めてしまっています。
 こんな自分の足りなさを思うのでありますが、しかし少々開き直って言えば、こんな自分だからこそ神さまが必要なのです。
 使徒パウロでさえ、信仰について、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」とフィリピの信徒に宛てた手紙の中で言っています。ましてやわたしなどは完全と言うには遥か遠く及ばず、不完全でしかないのです。パウロでさえ「何とか捕えようと務めている」というのですから、わたしたちは求め続ける存在です。一生涯求道者だと思うのです。
 それとは反対に、自分はすでに信仰を得ていると思う人は、しばしば大きな落とし穴にはまってるいると思えます。新約聖書に登場するファイリサイ派の人たちや律法学者たちの言葉と行動を見ていると、彼らは、自分たちは信仰がある、自分たちは行いが正しいと、言うならば自己義認しています。そしてそんな彼らが何をしたのか。律法を守ることのできない人を裁くことでした。
 たとえばヨハネによる福音書9章で、主イエスは目の見えない人を癒されました。でもそのとき、聖書のおきてを守ることに熱心なファリサイ派の人たちは、イエスを批判したのです。安息日にこんなことをするなんて許せない、そもそも何の権威でこんなことをしたのだと批判するのです。彼らは宗教熱心でした。それこそ信仰のある人たちでした。
 でもこのとき主イエスは自分を批判する人々に向かって、「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」と言っておられます。これはすごい言葉だなと読むたびに思います。そしてこの言葉は次のように言い換えることができるのではないでしょうか。「今あなたがたが『信仰がある』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」このように主イエスは、自分たちこそ立派な信仰を持っていると自負していた人々に向かって、厳しく問い掛けられたのです。
 これに対して、自分は信仰を持っていないと思っている人に主はどのように出会われたでしょうか。主イエスがレビという人の家で食事をしておられたときも、それを見た人たちが、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言っています。主イエスがザアカイの家に入ったのを見た人々は、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と言っています。主は、当時の社会で罪人とされていた人たちと共に生きられました。
 なおここで罪人という言葉について説明しなければなりませ。聖書が罪人という言葉を使うとき、犯罪人のこととは違います。聖書に地の民と呼ばれる人たちがいます。生活が苦しいため、あるいは職業上の理由で聖書の掟を充分に守ることができなない人たちがいます。食べ物に関する規定を守れない、あるいは汚れているとされているものを触ることを職業にしている人とかがいます。罪人というのは、そういう人に対する社会的な差別の言葉なのです。
 そして、主イエスは、当時の社会にあって、あいつは信仰がないと後ろ指をさされていた人たちと共に語り合われ、食卓を共にし、神の国の福音を語られたのです。主イエスは、心に重荷を抱え、日々の生活に大きな荷を背負い、また心に体に傷を負っている人たちを招かれ、憐みを与え、愛を与えられました。
 主イエスがなさった多くの人たちとの出会い。どれもが素晴らしく、心温まるものでありますが、今日読んでいただいたマルコ9章の「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」という物語もわたしの好きな話のひとつです。
 群衆のなかのひとりが主イエスに訴えます。わたしの子どもが霊に取りつかれています、と。マタイ17章ではこの子どもはてんかんであったと書かれています。今は適切な治療と服薬によって安定した生活ができますが、一昔前までは恐ろしく、また偏見にさらされることもありました。その昔、まさに悪い霊が取りついていると考えられたのでした。
 父親は主イエスに向かって言います。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでください。」この父親の言葉は、先に主イエスの弟子たちに頼んでも何もできなかったことから来ているのでしょう。不安な心をそのまま言い表しているようです。これに対して主イエスは、「できれば、と言うのか、信じるものには何でもできる」と応答されます。父親がまず何を願い、求めているのかをはっきりさせられるのです。
 そのとき父親は言います。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」この言葉のあと、主イエスはこの子を癒されました。「わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」するとこの子は、もう死んでしまったかと思えるほどのひきつけをおこしていたのですが、主イエスがその子の手を取ると、立ち上がったのでした。このあたりは奇跡物語特有の描写です。
 わたしはこの父親が叫んだ言葉がとても好きです。親近感のようなものを覚えます。「信じます。信仰のないわたしを」。これは矛盾した言い方です。信じますと叫んでいるのは、信仰のなさを認めている私です。信仰のない私が、信じますと叫んでいる。
 この人は自分に信仰がないことを知っています。彼は自分のなかに信じきることのできない弱さを抱えていることを認めています。疑ったり、迷ったり、調子のいいときには神様のことなど考えず、ちょっと困ると神様なんていないなどと思ってしまう。私には信仰があるなんて言えない。
 でも、なんとか信じたい、なんとか主イエスに癒してほしいという願いを持っている。出来れば信じたいんです。出来れば、神さまの助けをいただきたいんです。この揺れ動く、人間の心の弱さがここにさらけ出されています。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」とは、この揺れ動く心の中で、思わず叫ばれた言葉です。ここに、わたしたちの信仰の本質的な姿が現れていると思えてなりません。
 この話をもう少し詳しく見ておきましょう。物語は、前半と後半のふたつの話があって、それが対比されながらわたしたちにひとつのメッセージを与えてくれています。
 最初のほうを読むと、悪い霊につかれてひきつけを起こしている息子について、この父親は、主イエスの弟子たちに、子どもの病気を治してほしいと頼んだのでした。「先生、息子をおそばに連れて参りました。・・・この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しました」と述べられています。でも、弟子たちはその子の病気を治すことが出来ませんでした。
 14節には弟子たちが群衆に取り囲まれて議論していたと書かれていますけれど、実際には、弟子たちには治すことができないので、周りにいた人たちが、どういうことだと詰め寄って、なんだなんだというような騒ぎになっていたと思われます。
 主イエスはそれに対して、「なんと信仰のない時代なのか」と言っておられます。厳しい言葉です。これは信仰の足りなさを非難する言葉ではありません。そうではなく、病人を癒せるかどうか、奇跡を起こすことができるかどうか、日本的な言い方になろうと思いますが、ご利益があるかどうかということで、互いに言い合っている、そういう愚かしさを嘆いておられるのだとわたしは思います。
 しかしこの言葉は信仰のなさを嘆いて、それで終わりなのではありません。続けて主イエスが「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言っておられるように、ここには信仰の足りないわたしたちを憐れみ、救おうとされる主イエスの愛があります。
 ここでわたしが興味を持つのは、子どもの父親の心境が変化していっているということです。その変化を、父親の言葉から推測することができます。この物語の最初で父親は、「先生、息子をおそばに連れて参りました。・・・この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しました」と言っています。病気の子の病を治して欲しいという父親の願いから始まっています。
 でも、次に父親が言った言葉は、「わたしどもを憐れんでお助けください」です。息子とわたしの両方を憐れんでくださいと、言っているのです。最初は、「息子を治してください」と言っていたのに、次には、「わたしどもを憐れんでください」と言っている。
 そしてさらに、最後に父親が言った言葉は、「信仰のないわたしをお助けください」です。この言葉を順に読むと、救われるべき者が、子どもから父親へと変化していることに気づかされます。主イエスの癒しと救いは、病気の子どもに対してだけではなく、父親に対して与えられたのです。
 今日の話で、子どもは悪い霊につかれてひきつけを起こし、何か具体的な病にかかっているのですから、癒されるべきは子どもの病気であることは確かです。でも、そのことを重荷として、心配や思い煩いにつぶされそうになっている父親もまた、癒され、解放されるべき一人だったのです。父親は、主イエスとの出会いによって、そのことに気づかされました。最後には、「わたしをお助けください」と言ったのでした。そして主イエスはこの叫びの声に応えられ、その子から悪しき霊を追い出され、その子の手を取って立ち上がらせたのでした。
 キリスト教ラジオ放送でFEBCというのがあります。わたしはもうだいぶ前ですが、レギュラーの番組を持っていました。最初、岡山教会在任中にホットラインという番組で、放送局に届いた悩み事相談のような手紙に応えるということを1年半にわたってしました。それは、聴取者のかたから届いた手紙をお名前を伏せて朗読し、お返事をするという内容でした。そのとき、実に多くの悩み、そして多くの人と出会うことができました。
 その後、東京の番町教会に移ってから新しい番組を担当し、そこで毎週10分ほどの話を10年間近くいたしました。その新しい番組を立ち上げるにあたり、番組の名前を何にするかということになり、そこでわたしが提案して採用されたのが、「信仰のないわたしを」というタイトルでした。お気づきのように、番組名は今日ご一緒に読んだ聖書箇所、マルコ9:24からとりました。
 この言葉を選んだ一番大きな理由は、その前に持っていた相談番組で、聴取者の方から届いた手紙で、実に多くの人が教会でつまずいているということを知らされ、また、立派な信仰を持つことができないで悩んでいる人がおられることを知らされたからです。そこで、自分の信仰に自信を持てないでいる人、制度としての教会に疑問を感じている人、教会のなかでの出来事や、人の言葉に躓きを覚えている人、自分は不信仰でと、自分の足りなさや弱さを感じている人に聴いてもらいたいと思ったのでした。
 番組を始めてみると、聴取者の方々からいろんな反応がありました。その中の一つに、「信仰がないわたし」などと牧師が言うのはおかしいという意見がありました。そのような受け止め方ももっともだと思えます。けれどもどうなのでしょうか。信仰とは心の問題です。目で見て確かめて、信じます、信じません、というような話ではありません。24時間365日、熱い信仰を持ち続けるなどあり得ないことです。
 最初にも述べたように、わたしは、またわたしたちはこの世の常識や、価値観に引きづられることしばしばです。聖書を読んでいても、前にわかったつもりでいた箇所がわからなくなることもあります。わたし自身、説教をしていても、言い間違いもしてきました。わたしは、特に若かった頃、説教が終わった後、穴があったら入りたいような気持ちに何度させられたことでしょうか。
 自分が「神の言葉」を取り継いでいるなどとはとても言えず、わたしという一人の人間の言葉でしかないと、自己嫌悪さえ覚えてきました。でもわたしはそのような中で気づかされました。わたしはわたしの言葉でしか語ることができていない。しかし、語る者と聴く者との間に聖霊が働いてくださって、わたしの言葉を神さまからの呼びかけ、語りかけとして聴く人に届けてくださっているのではないか、と。
 そこでわたしは思うのです。大切なことは、わたしは立派な信仰を持っていますというようなことではなくて、むしろ足りない自分、欠けた器としての自分を認めることではないか。そう思うのです。そしてその時に聖霊が働き、神の助けが与えられるのです。
 はっきりと言って、自分に自信のある人は、神の助けを自分で拒んでしまうことになります。神の恵み、神の恩寵は欠けたところにこそ与えられます。それは説教をする者、牧師として立てられた者にも当てはまります。
 信仰とはわたしが信じるというよりは、神さまがわたしたちに働きかけてくださっていることを受け止める心だと思います。わたしたちは自分の信仰心を誇るようなことはできません。まさに「誇るものは主を誇れ」と、コリントの信徒に宛てた手紙でパウロが言っているとおりです。
 パウロは信仰の大切さを述べ、信仰によって義とされることを主張した人でありますが、彼はローマの信徒に宛てた手紙の中で、実におもしろい表現で信仰について述べています。ローマ4章に、「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」と書かれています。
 「不信心な者を義とされる方を信じる。」これは今日の「信じます。信仰のないわたし」という言葉ともつながる、興味深い言い方です。自分の弱さ、足りなさを神さまの前に正直に告白することから、信仰は始まります。
ですから、わたしたちに必要なことは、神さまの救いなしには生きられない自分に気付くこと、自分の弱さ、罪深さに気付いていくこと、それこそ信仰を持っていると言うにはふさわしくない自分を、神さまの前にさらけだしていくことではないでしょうか。
 マルコ9章において「信じます、信仰のないわたしをお助けください」と叫んだ一人の父親の姿は、わたしたちが覚えておくべき言葉であり、また姿勢だと思います。自分は、言葉とおこないで人を傷つけている、自分は人間的な失敗を繰り返している、すべてを神さまにゆだねているのではなく、日々思い煩いを抱いている、自分に信仰があるなんてとても言えない、でも信じたいのです、神さまの救いをいただきたいのです。この叫びを神さまは聞き入れてくださいます。


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(2021年11月21日 高槻日吉台教会朝礼拝)


「わたしが主」

日時    2021年11月14日 おすすめイメージ
降臨前第6主日
聖書箇所 出エジプト記 6章 2ー13節
       (新約p.101)
クワイア・チャイム演奏 こども10賛美歌  讃美歌21 55/ 504
説教者  𠮷岡恵生 牧師
     (高槻日吉台教会・朝礼拝)
    







 作家で僧侶であった瀬戸内寂聴さんが、99年の地上の旅路を終えられました。若い頃には、何度も人生を踏み外したという経験を、生涯を通して赤裸々に語られながら、宗教を超えて、多くの人々に、生きる意味を語り、自らの生き様を通して、人間とは何者であるのかを伝え続けて来た方でありました。
 かつては、クリスチャンになることも考えたことがあると言います。そんな寂聴さんが、最も大切にしていた言葉は「愛」でありました。「人は愛するために生まれて来て、愛するために生きている。愛することはゆるすこと」。そんな言葉も残されました。
 寂聴さんは、クリスチャン医師の日野原重明さんと対談をされた時、日野原さんが、かつてハイジャックされた飛行機にたまたま乗っており、そこで死を意識したけれども生かされたという経験から、人生を大きく変えられたと話されたこと受け、その話に共感するようにこう語りました。
 「何か、誰かが首根っこをつかんでぐっと引っ張ったという感じなんです。本当に、自分の意思というより、何かに引っ張られたとしか思えない。その意味で、日野原先生と同じように、大きな転機が向こうからやって来たという感じですね」。
 自分の人生が、自分だけのためではなく、誰かに生きる道を説き明かしていくために用いられていく。その人生の転機は突然に、向こう側から、誰かにぐっと引っ張られたかのようにやって来た。自分が望んだわけでもなく、自分が求めたわけでもなく、その時はやって来た。この言葉は、寂聴さんが、自分の命を、もはや自分のものとしてではなく、与えられた命として受け止め、その与えられた命を、人生をかけてどう使うかを真剣に考えて来たということを示していると思います。
 寂聴さんは、そうした人生観の中で、80歳を超えても、90歳を超えても、平和運動の最前線に立ち、争いの絶えないこの世界に、生きるべき愛とゆるしの道を説き続けて来ました。
 晩年、寂聴さんはこう語っています。「朝、目が覚めたらまだ生きていたって思う。いつ死ぬかなってそればっかり考えるんですけどね。我々の世代は、書き残す、言い伝えて残す、その義務があると思いますね。自分だけの小さな平和を守るのではなくて、後世に伝える義務があると思います」。
 そしてこうも語りました。「死ぬその日まで、自分の可能性をあきらめないで、与えられた日々の仕事に全力を尽くすこと」。この「与えられた日々の仕事」という言葉も、寂聴さんが、自分がやりたいことというよりは、与えられた命を、与えられた働きのために、全力を尽くして走り抜けてきたことを伝えていると思います。そしてその生き様は、宗教も、信仰も超えて、多くの人々の心を動かして来たのです。私は寂聴さんのその生き様に尊敬を覚えつつ、では、あなたはどう生きるのかと、問われているように感じています。
 さて、本日私たちには出エジプト記が与えられておりますが、ここにも、ある日突然、自分の意思とは関係なく、首根っこを掴まれるように、与えられる使命へと引っ張り出された一人の人物が登場します。その名はモーセです。
 エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を、そこから解放すること。出エジプトの旅路へと民を導くこと、そのために、エジプトの王ファラオと交渉し、弱った民を励まし、ファラオと民に神の言葉を伝えること。それが、モーセに託された使命でした。
 今日の聖書の直前のところで、すでにモーセはファラオと一度交渉をしています。イエスラエルの民をエジプトから去らせること、それが主の思いだと、モーセはファラオに伝えたのです。しかし、ファラオは「主とは一体何者なのか」と語り、「わたしは主など知らない」と言って、これを拒否しました。そしてファラオは一層厳しくイスラエルの民に重労働を課し、民たちは悲鳴を上げます。モーセの交渉は失敗に終わったのです。
 民たちは、その苦難と怒りの矛先をモーセに向けました。「あなたのせいだ。どうしてくれるんだ」。
 モーセは、神の言う通りにしたのです。それなのに、この有様です。モーセは、神に激しく詰め寄りました。「一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたはご自分の民を全く救い出そうとされません」。最な訴えです。その訴えに、神がどう応えたのか。そのことを伝えているのが、今日の6章になります。
 神は、「わたしは主」と語り始めました。今日の箇所だけでも、この言葉が3度繰り返し語られています。神はここで、色々な言葉を語っていますが、そこで一番伝えたいことは、「わたしは主」だということなのだと思います。
 この「主」と訳されている言葉は、原語では「わたしはヤハウェである」という言葉になりますが、この「ヤハウェ」の語源をたどれば、そこには、「生命」とか「生きている者」「生かす者」「存在し続ける者」という意味があることに気付かされます。古代世界では、名前はその人の存在や生き方、正体を表すものであると考えられていました。つまり、神はここで、不信感を募らせているモーセに対して、「わたしが何者であるのか」ということを伝えているわけです。
 神はここで、間接的に、5章にあるファラオの問いにも応えていると考えても良いかもしれません。「主とは何者だ」。ファラオはそう問うたのです。そしてそれは、モーセも民も抱いていた問いでありました。
 神自身が言っていますが、それまで神は、自分の名前を、つまり自分の正体を一度も公表していなかったのです。「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった」。アブラハム、イサク、ヤコブに現れた神は、何でもおできになる全能の神であることを伝えてはおられたけれども、その名と正体については、まだ伝えていなかった。だからこそ、その神と向き合う者たちは疑問を抱くのです。全能の神、何でもできるこの神は、敵なのか味方なのか。何でもできるというその力をどのように使うか。自分たちを苦しめるのか。殺すのか。そうした不安や疑いが、人々のうちに湧き上がるのです。実際、ここではそのような反応が、モーセや民たちから出て来ました。だからこそ、ついに神は、その名と正体とをはっきりと告げるのです。「わたしは主である」と。「わたしが主なのだ」と。「わたしは命の神であり、生きている神であり、命を生かす神であり、過去にも、現在にも、将来にも、消えることなく、存在し続ける神なのだ」と、その全能の力の使い道を、神自ら明らかにするのです。
 後に、心を頑迷にしたファラオを揺さぶるために、神はエジプトに災いをもたらします。そこで私たちは、ああこの全能の神は、やはり裁きの神なんだという強烈なイメージを持つことがあるかもしれません。しかし、それはあくまでも、ファラオが心を頑迷にし続けた結果であり、本来神は、イスラエルの民だけでなく、ファラオをも、エジプトの人々の命をも生かすべく、平和的解決のために、モーセをファラオの元に遣わし交渉させていたのだと考えることもできます。もちろん、全能の神ですから、その交渉の結果、ファラオの心を早々に柔軟にして、平和のうちにイスラエルの民を去らせるというシナリオを作ることもできたでしょう。しかし、全能の神は、全能ゆえに、あえてそれをしないという選択を選ぶこともできるのです。「ヤハウェ」という名が表しているように、神は命の神であり、すべての人に、平和と命をもたらすための行動を取られます。しかし、その呼びかけと招きに、人が気づき、応答することもまた、神は求めるのです。
 そのしるしに、神は今一度、モーセをファラオのもとに行かせます。11節の言葉です。「エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさい」。モーセにとっては厳しい語りかけでした。この直前には、ファラオによって、いっそうの重労働を課されて疲弊していたイスラエルの民に、それでも神を信じよう、生ける神の約束を信じよう、命を与えてくださる神を信じようと語ったのです。しかし、イスラエルの民は厳しい重労働のために、意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとしなかったのです。
 神の民であるはずのイスラエルの民ですら、モーセの言葉を聞かない。それなのに、どうしてファラオが、再度交渉をしようとするモーセの言葉を聞き入れるだろうか。モーセはそのように、神に訴えるのです。この訴えもまた、最もなことであると思います。それでも、神はモーセのその訴えを退けるように、とにかく語れ、イスラエルの民をエジプトから導き出すために、民とファラオの双方に語れと、モーセに命じるのです。なぜなら、「わたしは主」であるから。命の神であるから。人の命を生かすために存在し、そこに全力を注ぐ神であるからだと、神はここで、モーセに語りかけたのだと思います。
 神と、ファラオと、民の間に挟まれるモーセ。大変な使命に、文字通り引っ張り出されたモーセ。しかし。聖書の神まさに、このようにして、たとえそれが困難な使命だとしても、あえて人を立て、人を通して、人を用いて、ご自分の思いをこの世界に実現させていこうとされる方であるのです。イスラエルの民の命も、ファラオの命も、エジプトの人々の命も生かしたいという思いを。そのために、両者の間に平和的解決をもたらしたいという思いを、神はモーセに託すのです。
 モーセからすれば、なぜ私がと、問い続けざるを得ないような要求だったに違いありません。実際モーセは問い続けます。自分には無理だと言い続けます。しかし、そんなモーセに、あの「わたしは主である」という言葉が、また別の角度から響くのです。
 そもそも、なぜ「生命」や「生かす者」「存在し続ける者」という意味を持つ「ヤハウェ」という言葉が、「主」という日本語に訳されているのでしょうか。それは適切な訳ではないと評価する聖書学者もいるようですが、私は、これは絶妙な訳であると受け止めています。なぜなら、神が自分の名を名乗る時、そこでは、ご自分が命を与え、人を生かす神として存在し続けていることを証ししているのと同時に、その与えた命を生きる人間とご自分との関係を、神は端的に伝えようとしたのではないかと思うからです。
 私は、命を生かす神だ。あなたに命を与えた神だ。この世界のすべての命を造り、生かす者として今日も存在している。そこであなたに考えて欲しい。あなたは何のために、どう生きるのかと。自分で獲得した命ではない。与えられた命だ。好き勝手に生きる命ではない。与えられた意味を問いながら生きる命だ。あなたの命がなぜ与えられたのか。他の命がなぜ与えられたのか。そのことを考えて生きて欲しい。あなたの命の主は私である。命の主体が、私たち人間にあるのではなく、命の与え主である神にある。命の主体である神を思う時、人は初めて、本当の意味で、与えられた自分の命の意味や、その使い道を知る者となる。その意味で、私の命は私のものと、私の好きなように生きさせてくれと、私を主として考える人々に、主はまっすぐに語りかけておられるのです。違う。わたしが主であると。
 エジプトの奴隷を神が解放したのは、神が作った双方の命が片や人を苦しめ、片や苦しめられていたからです。すべての命が尊いのに、そこで命を生きる人間が道を誤る時、踏みにじられる命が生まれてしまう。命の主は人間ではなく神であることを忘れる時、人は他の命を軽んじていく。この問題の解決として、出エジプトの物語は、神が立てたモーセを通し、進んでいくのだと思うのです。
 私たちが生きる時代はどうでしょうか。なお、この時代に起こすべき出エジプトの出来事は、そこら中にあるのではないでしょうか。誰かの命が、誰かの命を踏みにじる。人と人とがいがみ合う。自分の命だけでなく、他の命も、自分に命を与えてくださった、同じ主から来ていることを忘れる人間が、他の命を軽んじるのです。その世界の状態を、神は悲しみ、こう叫び続けているに違いない。「私が主である。私が命の主である。私があなたに命を与え、そして世のすべての命を造ったのだ」と。「何のために造られた命なのか。与えられた命なのか。一人一人、よく考えて欲しい。私は虐げられている人を解放し、人を痛めつける者に語りかける。解放させなさいと。その声を、この語りかけを聞いたあなたに、あなたの生きるその場所で伝えて行って欲しい。あなたに与えられた命の意味を問いながら、あなたの命の主は私であることを覚えながら、私の思いを実現していくために、あなたに力を貸して欲しい」。神は、この世界の現実を悲しみながら、なお、神の言葉を聞く私たちに、大切な使命を託してくださろうとしているのです。
 冒頭で紹介しました、瀬戸内寂聴さんの言葉を今一度聞きましょう。あの方はかつてクリスチャンになろうとした僧侶でした。僧侶でしたが、かつて聖書の御言葉に触れていた一人として、その魂の深くには、「神は愛なり」の御言葉を宿していたのではないかと感じています。
 「人は愛するために生まれて来て、愛するために生きている。愛することはゆるすこと」。「死ぬその日まで、自分の可能性をあきらめないで、与えられた日々の仕事に全力を尽くすこと」。「朝、目が覚めたらまだ生きていたって思う。いつ死ぬかなってそればっかり考えるんですけどね。我々の世代は、書き残す、言い伝えて残す、その義務があると思いますね。自分だけの小さな平和を守るのではなくて、後世に伝える義務があると思います」。
 あなたは、与えられている命をどう生きますか。今日、与えられている命。どう生きますか。自らの命の主を覚えて、共に歩んでまいりましょう。






(2021年11月14日 高槻日吉台教会朝礼拝)








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